yow-lowです。
自粛していたわけではなく、簡単に書けない事だけに時間がかかっていました。正直この日の事は自分の言葉で残さないといけないと強く思い過ぎててって部分ありましたが、、
3月11日
この日は珍しく一日事務所勤務でした。会社は豊洲の埋立地にある30階建ての高層ビル。
自分のフロアーは13階ではあったものの揺れ方は半端なく、机の上のノートパソコンが滑り落ちたほど。
人っていざとなるとダメだね、机の下に潜ることすらできずただしがみついてただけだった。
震災直後、嫁とまったく連絡がつかずかなりかなり焦っていましたが、友人がわざわざ家まで行って安否確認とって連絡してくれたのでホントに助かりました。この時の事は一生忘れません、ちーちゃんありがとね!
会社からはお台場の火事の煙が見え、会社近辺の道路に液状化現象が発生していました。当然、電車は全て止まり会社は帰宅難民者の避難場となっていました。最初はみんなと同じように会社に泊まろうかとも考えたんだけど、やっぱり家族が心配だったので歩いて帰る事に。
豊洲から家まで想定で25Km。状況はわからないけど6時間で帰れるかどうかってところ。結局、じっとしていられなかったので、後輩と一緒に歩き始めた。なんかこの日は寒くって、あと長時間の揺れで三半規管がおかしくなっていたのか、ふらふらしながら大都会を歩いた。大勢の人が同じように歩いてた。主要なハブ駅近辺は人が多すぎて通り抜ける事もままならなかった。車は勿論大渋滞でほとんど動いてない。そんな中ではあったけど、三軒茶屋まで嫁さんが車で迎えに来てくれて、拾ってもらったんだけど、予想通りそこから動かず。三軒茶屋で合流したパパ友とみんなで夜中までかかって一緒に帰りました。結局会社を19時ぐらいに出て、家着いたの夜中の2時ぐらいだったかな。
家に帰って、翌日のテレビ映像で恐ろしい状況に言葉を失いました。翌日以降の関東も余震や計画停電、食料の問題で若干パニック状態の日々をしばらく過ごす事になってました。
原発の問題は未だに不安定な状況と影響範囲の不明確さにいらだちを覚えるし、全て後手にまわり結果的には完全に情報隠蔽となった国の対応には言葉がありません。
ただ私たちのできる事は、できる限りの復興支援と今まで以上の経済活動。失った命に変えれるものは無いですが、前を向いて進まなくてはいけないと強く思います。
東北、長野、関東の被災者の方が一日でも早く、安心して寝れる日が来る事を心から願っています。